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            | 京葉工業地帯 | 
            妙経寺 | 
            姉ヶ崎駅 | 
            姉埼神社 | 
            姉崎カントリー | 
           
        
       
      市原市姉崎は、古墳時代、豪族である上海上国造の本拠地として栄え、大型古墳の二子塚、天神山古墳 
      などを含む古墳群は、千葉県を代表するものであり、その中に位置する式内姉埼神社も創建がそのころです。  
      椎津にあります通称城山は、中世の城跡で、木更津の真里谷に本拠地をおいた武田氏が、交通の要衝であり 
      峻嶮な要害地である椎津に、真里谷本城の北の守りとして築城したといわれています。椎津城主武田政信は 
      房州の里見氏との激戦の末大敗し、その後、結城秀康の次男松平忠昌、三男直政がこの地を治め、江戸時代末  
      までは、水野忠詔が、安房国北条より椎津の現姉崎小学校の地に城(陣屋)を移し、藩校「修来館」を有する 
      文武に名高い鶴牧藩一万五千石を治めていました 
      .明治45年開業した姉ケ崎駅(宝生堂の創業もこのころ)に程近い顕本法華宗妙経寺は   
      、儀僕市兵衛、孝子五郎、鶴牧藩の上代家老手嶋家、藩士の墓があり、(当家榊原も藩士)  
      水戸光圀が宿泊した記録も残る古刹としてしられています。  
      大型の木造船、五大力船により古くから江戸との交流も盛んで、数多くの物や人、文化が行き交いました。 
      どこまでも続く遠浅の海は、海水浴、潮干狩り、すだて 、納涼などの娯楽、海苔の養殖、海老、シャコ、貝などの 
      各種漁業により、たいへんな賑わいをみせていました。市原市でも最初のゴルフ場、姉崎カントリー倶楽部もオープンし 
      姉崎音頭、姉崎踊り、姉崎ワルツ、などのご当地ソングもつくられました。 
      昭和30年代の京葉臨海工業地帯造成に伴い、姉崎の海も昭和36年には完全になくなり、(汐風はおほらなくなり) 
      京葉コクビナートの中枢を担う様になりました。東京から50キロ圏内のベッドタウンとしても発展し、山林ゃ田畑は 
      住宅や商店へと姿を変え、今日ジェフ市原の練習場が..サッカーの街に変われる?...つづく 
      絵葉書の説明はこれくらいですが、これから姉崎について下記の順に記していきます。 
      歴史家、では無く一般人ですので、軽く読んでください。 
      間違っていたら連絡ください、訂正致します。 
      参考文献は当家にある書物を参考にしています。 
      また、小出君の姉崎不思議発見をベースにして記していきます。 
      ここからはじまり 
      姉崎の由来 
      .海の中から姉崎出現 
      どっちが正しい?あねさき..あねがさき 
      古代 
      姉埼神社と古代伝説 
      武士の時代 
      頼朝伝説と鎌倉街道 
      椎津城山合戦記 
      江戸時代 
      幻の姉崎藩 
      鶴牧藩と城下町 
      姉崎にきた有名人 
      近代 
       
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